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【インディジャパン インタビュー 前編】サーキット建設計画からインディ誘致まで…ツインリンクもてぎ元総支配人 高桑元 氏

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ツインリンクもてぎ元総支配人 高桑元 氏
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 ツインリンクもてぎで9月16〜19日に開催が予定されている「インディジャパン ザ ファイナル(INDY JAPAN THE FINAL)」。その名称からも分かるように、今回のレースをもって日本で開催されるインディカーは一旦終止符を打つ。今回、ツインリンクもてぎの計画に関わり、2006年まで総支配人を務めた高桑元氏を取材し、サーキットの計画づくりからアメリカ最高峰レース誘致までの話を伺った。


◆91年にスタートした新サーキット建設計画

----:まずは高桑さんのご経歴からお話しいただきたいと思います。

高桑:私は1969年から鈴鹿でレースの企画部門やイベント企画に取り組んでおり、その後はモータースポーツ課の課長もつとめてきました。91年からは今のツインリンクもてぎである新サーキット建設のプロジェクトに加わりました。97年のもてぎオープンやCARTの誘致をはじめとしてここで開催される全てのレースの運営に携わり、2000年に一旦鈴鹿に移った後、2003年から定年退職する2006年までツインリンクもてぎの総支配人を務めました。

----:日本でも珍しいオーバルコースとロードコースの2つを併設するサーキットを作ろうとした経緯についてお聞かせください。

高桑:ひとつに80年代半ばのモータースポーツの盛り上がりがありました。鈴鹿サーキットは常にスケジュール一杯で、モータースポーツにトライしてみたいという人たちの要望に応えられなくなってきたのです。そこで、関東にサーキットをつくろうという話はホンダ社内で90年前後に出てきて、91年からプロジェクトが発足しました。メンバーはホンダから公募で選抜された十数人と幹部、私のようなモータースポーツ分野の経験者が鈴鹿サーキットから集まって組織されました。

----:当初からオーバルとロードコースを作る予定だったのですか。

高桑:当初はロードコースだけの計画で運用の検討をしていました。いろいろな方面からメンバーも集まり意見が寄せられたのですが、当時はというと(大分県の)オートポリスやTIサーキット英田(現岡山国際サーキット)など国際規格のサーキットがつぎつぎできる中で、「レースだけでいいのか」「他と同じサーキットを作って、ホンダとあろう会社がそれでいいのか」という意見も出てきたのですが、当時は本田技研工業本体の経営環境が厳しかったこともあって、着工のゴーサインが出ませんでした。


◆アメリカでの視察でモータースポーツの考え方が変わった

----:オーバルコースは当初から予定されていたわけではなかったのですね。

高桑:私はもてぎのプロジェクトに携わる前は鈴鹿サーキットにいたのですが、当時はオーバルでのレースはわたし自身、正直言って評価していなかったのです。同じコースをぐるぐる回だけで何が面白いのか、と。ただもてぎのプロジェクトに携わることになり、アメリカのモータースポーツを学ぶために3週間ほど、視察に行ってきました。そこで考え方が変わりましたね。

----:と言いますと?

高桑:モータースポーツは欧州と米国で全く別々の発展をしていきました。特にモータースポーツの考え方という部分が大きく異なり、アメリカの他のスポーツにも言えることですが、常に観客が主体で、いかにエキサイティングなレースをお客さまに提供するかというエンターテインメント性を突き詰めています。また、アメリカは非常にオープンで、我々のような初対面でも腹を割っていろんなことを話してくれる点も感銘を受けました。F1を通じて知り合ったアメリカ自動車競技委員会会長(当時)のバーデット・マーティンなどは、アメリカ視察の段取りを全部してくれ、色んな人に引き合わせてくれました。この視察でNASCARからインディ500までサーキットも6箇所ほど回り、アメリカのモータースポーツ文化を肌で感じることができました。

----:もてぎのプラン立案にあたり、視察を通じて参考にされたサーキットはあるのでしょうか。

高桑:一番印象に残ったのは1.5マイルのオーバルコースであるシャーロット(Charlotte Motor Speedway:ノースカロライナ州コンコードのオーバルサーキット)と、クオーターマイルのダートトラック。これを見てやっぱりこれぞアメリカと感じましたね。オーバルの良さは、観客席からコースの全てが見渡せること。そしてピットもオープンで間近でタイヤ交換や給油を見られるという迫力も重要でした。インディ500が開催されるインディアナポリス(Indianapolis Motor Speedway)もありましたが、伝統の一戦としての非常に特別な場所であり、単純に参考にはできないなと感じました。


◆「必ずやるから」という社長のひと言

----:それでもてぎがロードコースとオーバルコースの「ツインリンク」になったのですね。

高桑:いや、まだこの時点では本決まりではなかったのですよ。当時92年から93年頃にかけてはホンダの経営環境が厳しく、数百億円の投資をできる状況になかったのです。なかなか話が進まないので、私は半分ふてくされていたのですが(笑)、ある日当時社長だった川本(信彦 本田技研工業社長)さんとエレベーターでバッタリ出くわした際に、「いろいろ苦労かけて済まないね。必ずやるから」と声を掛けられたことが印象に残っています。その後93年以降は日本国内ではRVブームに乗って『オデッセイ』などヒット車が生まれ、海外の事業も好調に転じたので、急速に工事が進んでいきました。当初はロードコースだけだった計画も、オーバルの追加建設が急遽決定しました。それが95年から96年にかけてですかね。

----:オーバルの建設に際してインディカーの誘致は前提としてあったのでしょうか。

高桑:必ずしもインディカーありきではなかったのですが、アメリカのモータースポーツを何らかの形で実現させることは必要だという認識ではいました。交渉を始めた当時は分かれていなかったのですが、ほどなくして「CART(チャンプカー)」と「IRL」というレースオーガナイザーに分かれました。分配金などを巡ってインディ500を運営するIRLに対してマニュファクチャラーの不満がCARTの設立となったのですが、当時はアメリカホンダがCARTにエンジンを供給し95年にはシリーズチャンピオンにもなったので、CARTをメインで交渉していくことになったのです。その後、ホンダのエンジン供給先の変更もあり、2003年からはIRLのインディカーシリーズ中の「インディジャパン」として正式にインディの名称を使ってレースを開催するに至りました。


----:誘致においてはさまざまな紆余曲折があったのですね。

高桑:これまでの日本のモータースポーツというのは、マシン開発の幅を広く認める欧州型と呼べるでしょう。この方式は国産車の発展にたいへん貢献してきたことは確かです。ただ今後のモータースポーツ振興を考えるに当たっては、アメリカのモータースポーツの考え方、フィロソフィーを取り込むことが重要だというのはかねてから考えていたことでした。これからはもっとエンターテインメントの時代だ、と。NASCARにしてもインディカーにしても、追い越し・追い抜きの場面を多く見せることエンターテインメント性を高めるための努力は相当なものです。

《まとめ・構成 北島友和》
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