人生100年時代、そしてAIやDXの劇的な進化。あなたのキャリアは、この激動の時代にどう対応していますか?
「今のスキルで大丈夫だろうか」「新しい分野に挑戦したいが、どうすれば?」と漠然とした不安を感じているビジネスパーソンは少なくないでしょう。しかし、リスキリングは単なるスキル習得ではありません。それは、変化の波に乗り、自らのキャリアを再定義し、未来を切り拓くための強力な武器となります。
今回は、長年人材開発とキャリア形成を研究されている、横浜国立大学大学院国際社会科学研究院教授・日本学術会議連携会員・京都大学経済学博士の二神 枝保 教授にお話を伺いました。個人のマインドセットから企業の支援、大学の役割、そして国策まで、リスキリングの最前線に迫ります。
リスキリングの現状と日本企業の課題:なぜ進まないのか?

日本企業のリスキリング実施率は低水準に留まる理由
──昨今、リスキリングに対する社会的な注目度が非常に高まり、実際に取り組む方も増えています。この状況について、二神 教授はどのように捉えていらっしゃいますでしょうか。
二神 枝保 教授リスキリングについて、2024年10月に帝国データバンクが発表した「リスキリングに関する企業の意識調査」があります。その結果によりますと、リスキリングに「取り組んでいる」企業は全体の8.9%、「取り組みたいと思う」企業は17.2%でした。これらを合わせても26.1%と、およそ4社に1社の割合にとどまっています。
企業が直面するリスキリング推進の主な障壁
二神 枝保 教授一方で、リスキリングに「取り組んでいない」と回答した企業が46.1%と半数近くを占めています。その理由として、企業がリスキリングを導入する際に、いくつかの課題があることが考えられます。同調査では、課題として「対応する時間を確保できない」が42.1%と最も多く、次いで「対応できる人材がいない」が38.9%、「必要なスキルやノウハウがない」が30.9%と、企業側の課題が多く挙げられています。
──企業側にも様々な事情があるのですね。
二神 枝保 教授AIやDX(デジタルトランスフォーメーション)化が進む現代において、リスキリングは非常に重要です。もちろん、最も大切なのは従業員個人のモチベーションや意欲ですが、この調査結果からは、まず企業側の深い理解が不可欠であることがわかります。その上で、企業と教育機関の連携といった、社会全体の取り組みが今後の重要な課題だと考えています。
──なるほど。個人の意欲は高まっている一方で、企業側の受け入れ体制がまだ整っていない、ということですね。
「100年キャリア」を生き抜くためのリスキリング戦略

人生をマラソンと捉える「カリヨン・ツリー型キャリア」とは
二神 枝保 教授拙著『キャリア・マネジメントの未来図』(八千代出版)の中でも詳しく解説していますが、これからのキャリア形成において「カリヨン・ツリー型キャリア」という考え方は欠かせません。そして、その実現のためにはリスキリングがきわめて大きな意味を持つでしょう。
著書『ライフ・シフト』で有名なリンダ・グラットン氏が「人生100年時代」を提唱しているように、これからはマラソンのように長い期間をかけて自身のキャリアを築いていくという視点が求められます。
──「カリヨン・ツリー型キャリア」について、詳しくご説明いただけますか?
二神 枝保 教授「カリヨン」とは、教会にあるたくさんの小さな鐘が連なって吊るされている楽器のことです。そのカリヨンのように、小さな釣鐘がいくつも連なって描かれるようなキャリアのモデルが、これからの時代に有効だと言われています。
──具体的には、どのような働き方を指すのでしょうか。
二神 枝保 教授例えば、20代・30代で精力的に仕事に打ち込む期間もあれば、子育てや親の介護をするために少しペースを落とす期間もあるでしょう。また、今日のテーマであるリスキリングのために大学院や専門学校で学び直したり、ボランティア活動に専念したりと、仕事以外の活動に集中する時期も考えられます。
このように、全力で仕事に取り組む時期と、少しペースを緩める時期をジグザグに繰り返しながら、自身のエネルギーをうまくコントロールし、長期的な視点でキャリアを形成していく働き方、それが「カリヨン・ツリー型キャリア」です。
リンダ・グラットンが提唱する、緩急をつけたキャリア形成の重要性
二神 枝保 教授リンダ・グラットン氏も著書の中で、「未来に押しつぶされないキャリアを築くには、価値を生むような希少性があり、模倣されない専門知識と技能を習得し続けなければならない」と述べています。
専門技能を向上させるためにも、この「カリヨン・ツリー型キャリア」は非常に有効です。長いマラソンを走り抜くためには、途中で水分を補給することが不可欠ですよね。それと同じで、長いキャリアを築いていく上でも、一度ペースを落として学び、スキルアップする時期が必要です。リスキリングは、まさにそのキャリアというマラソンにおけるエネルギー補給のような、非常に重要な役割を担っているのです。
──キャリアの中で、なだらかな坂道のような期間にリスキリングを行うイメージですね。
二神 枝保 教授はい。もう少し広い意味で捉えれば、ボランティアやNPOでの活動、あるいは子育てや介護といった経験も、長い目で見ればその人のキャリアにとってプラスに働く可能性があります。このようにハイペースな時期と、なだらかな時期を組み合わせることが、長くキャリアを築く上では非常に重要になるという考え方です。
環境変化に柔軟に適応する「変幻自在なキャリア(プロティアン・キャリア)」の概念
二神 枝保 教授もう一つの重要な考え方として、変化する企業環境に自身のスキルをいかに適応させていくか、という視点があります。そこで重要な概念となるのが、「プロティアン・キャリア」という考え方です。
──「プロティアン・キャリア」とはどのような概念なのでしょうか?
二神 枝保 教授これはダグラス・ホール氏が提唱した概念で、英語では「protean career」と言います。この「プロティアン」という形容詞は、ギリシャ神話に登場する海神「プロテウス」に由来します。プロテウスは、敵と戦う際に、大蛇やライオン、猪など、周囲の環境に合わせて自在に姿を変える能力を持っていました。そこから、「プロティアン」は日本語で「変幻自在な」と訳されることがあります。
──なるほど。神話が語源になっているのですね。
二神 枝保 教授ええ。つまり「プロティアン・キャリア」とは、自身の本質的なアイデンティティは保ちつつも、周囲の環境変化に合わせて柔軟に自分を変化させていくキャリアのあり方を指します。AIやIT化といった急激な環境変化の中では、こうした環境適応能力を身につけることが、ますます重要になってくると考えています。
効果的なリスキリングを実践する「個人の軸」の確立

激しい環境変化の中で自分に必要なスキルを見極める「高い問題意識」
──個人がリスキリングを進める上で、効果的な学習方法やモチベーションを維持するコツについて教えていただけますでしょうか。
二神 枝保 教授はい。個人がリスキリングを効果的に進めるためのポイントは、大きく2つあると考えます。
まず一つ目は、非常に高い問題意識を持つことです。AIやDXが浸透し、企業を取り巻く環境は激しく変化しています。その中で、「今、そして将来自分にとって何が必要か」を常に考えることが重要です。
──なるほど。まずは現状認識と課題の発見ですね。
二神 枝保 教授そしてもう一つ大切なのは、ご自身の「キャリアの軸」、つまりコアとなるものは何かを同時に考えることです。この二つを踏まえた上で、ご自身のキャリアプランと限られた時間の中で、どのようにスキルや知識を計画的に身につけ、実行していくかを考えることが求められます。
キャリアの羅針盤となるエドガー・シャインの「キャリア・アンカー」
二神 枝保 教授先ほど「キャリアの軸」というお話をしましたが、それに関連する重要なコンセプトとして、エドガー・シャインが提唱した「キャリア・アンカー」という考え方があります。
──「キャリア・アンカー」について、詳しく教えていただけますか?
二神 枝保 教授はい。「アンカー」とは、船が港に停泊する際に、船体を安定させるために海底に下ろす「錨(いかり)」のことです。それと同様に、キャリアにも錨のようなものが存在し、それが個人のキャリアを導き、方向づけ、統合するのに役立つと言われています。
──自分のキャリアを繋ぎとめておく、軸になるものというイメージでしょうか。
二神 枝保 教授その通りです。エドガー・シャインの言葉を借りれば、キャリア・アンカーとは「自覚された才能と動機と価値の型(パターン)」と定義されています。平たく言えば、その人自身の譲れない価値観や、キャリアにおける軸、強みのようなものだとお考えください。自身のキャリアを方向づけるこのアンカーが何であるかを知ることは、非常に重要です。
企業と大学が牽引するリスキリング最前線

有名企業による戦略的な人材投資とリスキリング支援事例
二神 枝保 教授企業が従業員のリスキリングを推進し、成功させるために大切なのは、まず「自社にとって将来どのような人材やスキルが必要になるのか」を長期的な視点で見据えることです。その上で、求める人材をどのように育て、そのためにいかなる人材投資を行うのかを明確にし、計画的に人材開発を進めることが重要だと考えます。
──なるほど。長期的な人材戦略が不可欠なのですね。具体的な企業の取り組み事例があれば教えていただけますか。
二神 枝保 教授はい。以前、スウェーデンの家具大手IKEAにヒアリングをする機会がありました。元々は女性活躍に関する調査だったのですが、その中で非常に興味深いと感じたのが、「サバティカル休暇制度」の存在です。
──サバティカル休暇というと、大学の二神教授が研究のために取得するイメージがあります。
二神 枝保 教授大学では教員が研究のために長期休暇を取得する制度がありますが、企業で導入されているのは新鮮でした。IKEAの制度では、従業員が新しいスキルを身につけたい、あるいは何か新しいことを学びたいと希望した場合、職業学校に通ったり、留学したりといった、自身のスキルアップのためにこの休暇を利用することができます。
企業が長期的に成長し、競争優位性を獲得するためには、ご紹介した企業の例のように、長期的な視点で人材に投資し、開発していくという姿勢が大切です。それは、リスキリングを推進する上で何より重要になると考えます。
横浜国立大学が実践する社会人向けリカレント教育プログラムの具体例
──大学の役割についてお伺いします。社会人のリスキリングを推進する上で、大学側はどのような貢献ができるでしょうか。社会人教育や企業連携といった観点からお聞かせください。
二神 枝保 教授大学を含め、教育機関がリスキリング推進で果たす役割について、私自身が所属している横浜国立大学での取り組みを3つご紹介します。
一つ目は、学部レベルでの社会人教育です。横浜国立大学経営学部では、社会人のビジネスパーソンを対象とした、少人数制のゼミ形式の演習プログラムを提供しています。私が昨年担当したクラスでも、平日の夜間に演習時間を設け、社会人の方が働きながら経営学を学んでいました。
──学部レベルから社会人向けのプログラムがあるのですね。
二神 枝保 教授二つ目は、大学院の修士課程レベルでの取り組みで、社会人向けの教育プログラムの「横浜ビジネススクール(YBS)」です。こちらもビジネスパーソンを対象としており、少人数制のクラスでMBA(経営学修士)の学位を取得できるコースです。
──より専門的な学びの場ということですね。
二神 枝保 教授はい。講義は平日の夜間と土曜日を中心に行われ、社会人の方が働きながら経営学を学んでいます。私自身も「ヒューマン・リソース・マネジメント」の講義や、人材開発の日欧比較、ダイバーシティ&インクルージョンをテーマにした演習を担当しています。
社会人学生の皆さんは非常に熱心で、多忙な中でも時間を作り、日々の業務で感じた疑問を掘り下げたり、断片的な知識を体系的に整理したりしたいという高い意欲を持って、修士論文の執筆に取り組んでいます。
──日々の業務での課題意識が、学びの強い動機になっているのですね。
二神 枝保 教授そして三つ目が、国際的な連携プログラムです。こちらは私が直接関わっているわけではありませんが、非常に特色のある取り組みです。先ほどご紹介した横浜ビジネススクールの中に、特に管理職層を対象とした「IMPM(International Masters Program for Managers)」というMBAプログラムがあります。横浜国立大学のほか、カナダのマギル大学、イギリスのランカスター大学、インド経営大学院バンガロール校、ブラジルのジェトゥリオ・バルガス財団公共経営大学院(FGV EBAPE)といった、5つの教育機関が連携しています。富士通や横浜銀行、ルフトハンザなど多くの企業とも連携しており、実務に沿った実践的リスキリングに役立っています。
AI時代に求められるスキルと資格の意義

日本におけるデジタル人材不足の現状とAI・DXスキルの急増する重要性
──AIやDXの急速な発展は、今後、資格の価値や社会で求められるスキルにどのような影響を与えていくとお考えでしょうか。
二神 枝保 教授まず、AIやDXに関するスキルの重要性は、今後さらに増していくでしょう。政府は2026年度までにデジタル人材が約230万人不足するという試算を発表しており、社会人がデジタルスキルを習得できる環境整備を進めています。企業においても、AIの活用やデジタルトランスフォーメーションは業務上ますます重要な課題となっています。
──あらゆる分野でデジタル化が進んでいますね。今後重要性が増すと考えられる分野はありますか。
二神 枝保 教授少子高齢化への対応は、時代の趨勢であり、介護・福祉分野は重要性の高い分野の一つです。私自身も高齢者雇用や障害者雇用も専門としていますが、特に介護・福祉分野では介護福祉士をはじめとする人材の人手不足が深刻です。そのため、この分野で求められる専門スキルも、今後ますます重要になっていくでしょう。
──つまり、社会の変化に対応できる専門スキルを持つ人材が、より一層求められるということですね。
二神 枝保 教授はい、その通りです。ご紹介したような専門的なスキルを持つ人材が、これからの社会で必要とされることは間違いありません。
ドイツ・スイスのデュアルシステムに学ぶ、職業資格の社会的意義
──キャリアアップを考える上で、資格はどのような意味を持つのでしょうか。二神教授はヨーロッパの労働市場にもお詳しいですが、その視点からお聞かせいただけますか。
二神 枝保 教授ヨーロッパ、特にドイツやスイスには、職業教育・訓練制度の非常に長い歴史があります。その代表的なものが、中世に始まったと言われる「デュアルシステム」や「マイスター制度」です。
──具体的には、どのような制度なのでしょうか。
二神 枝保 教授これは、週に1〜2日は職業学校で理論を学び、残りの3〜4日は企業で実践的なOJT(On-the-Job Training)を受けるという、教育と実務を並行して行う仕組みです。こうした訓練を経て、さらに専門的な経験を積み、国家資格試験に合格することで「マイスター」という称号を得ることができます。このように、長い歴史的背景から、ヨーロッパでは資格が社会的に非常に重要な意味を持っているのです。
欧州の「フレキシキュリティ」にみる、リスキリングを通じた雇用の安定
──ヨーロッパの労働市場について、さらに詳しくお聞かせいただけますか。
二神 枝保 教授はい。ヨーロッパには「フレキシキュリティ(flexicurity)」という重要な概念があります。これは「柔軟性(flexibility)」と「保障(security)」を組み合わせた造語です。柔軟性と保障を両立し、それを実現していくという考え方です。
解雇の規制を緩和して労働市場の柔軟性を高める一方で、失業した際には手厚い職業訓練を提供し、ITやDXといった成長分野へ円滑に労働移動できるよう支援することで、結果的に雇用を保障するという考え方なのです。
──なるほど。
二神 枝保 教授実際にデンマークでは、GDPに対する職業訓練への公的支出の比率が日本の約30倍とも言われ、失業しても次の仕事に就くまで政府が手厚い職業訓練で支える体制が整っています。このように、職業訓練が雇用のセーフティネットとして機能しています。
キャリアを再構築するリスキリング:今、あなたにできること

本インタビューを通して、リスキリングが単なるスキルアップにとどまらず、人生100年時代を生き抜くためのキャリア戦略の核心であることが明らかになりました。
二神教授は、個々人が自身の「キャリア・アンカー」を認識しつつ、環境変化に「変幻自在」に適応する「プロティアン・キャリア」を築くことの重要性を強調されています。
読者の皆様も自身のキャリアを見つめ直し、未来を切り拓くための第一歩を踏み出してみてはいかがでしょうか。
