400名もの技術伝習工女を集めた富岡製糸場…女性にとって画期的だった環境

 2014年6月、群馬県富岡市にある富岡製糸場は、ユネスコの世界文化遺産として登録された。富岡製糸場とは、明治時代を迎えた日本が輸出品の要であった生糸の品質改良と大量生産を目指して建てた初の器械製糸工場。

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トラス構造という建築方法で造られた繰糸場。採光のための多くのガラス窓や屋根の上には蒸気抜きの越屋根が取り付けられた
  • トラス構造という建築方法で造られた繰糸場。採光のための多くのガラス窓や屋根の上には蒸気抜きの越屋根が取り付けられた
  • 製糸場内は希望者へのガイドツアーも行われている
  • 繰糸場は陽の光が差し込む広い空間
  • 繰糸場の外観
  • 指導者として雇われたポール・ブリュナが家族と暮らした住居
  • 指導者として雇われたポール・ブリュナが家族と暮らした住居
  • フランス式繰糸器の復元機も見学することができる
  • 東繭倉庫内が見学コースになっていて、歴史などが紹介されている
フランス式の繰糸器300釜が並ぶ世界最大規模の製糸工場

繭から生糸を巻き取る繰糸場には、フランス式の繰糸器300釜が設置される。当時、世界最大規模の製糸工場だったそうだ。

富岡市シルクブランド係・長谷川直純さんは「小屋組みは、トラス構造といい従来の日本にはない建築工法です。この工法は、建物内に柱を据える必要がありません。中央に柱のない広い空間を作れます。ですから新しい機械に替えるのも取り付けやすかったでしょうね。だからこそ昭和62年の操業停止まで当時の建物を残すことができたとも言われています。だからこそ世界遺産にも認められたんです」と教えてくれた。

寄宿舎も病院もあり、能力給制だった画期的な職場

製糸場建設とともに進めたのは、400名もの技術伝習工女を集めることだった。各府県に人数を割り当てて募集し、全国から15~25歳の娘たち(主に士族の娘だった)が富岡にやってきた。場内は、彼女たちが暮らす寄宿舎はもちろん、医師が常駐する診察所まであり、1日3食の食事つきで能力に応じて給料が支払われるなど、全てにおいて画期的な環境であった。当時、工女だった和田英(わだ・えい)が記した『富岡日記』には、仕事仲間とのやりとりや場内で生活していたブリュナ氏の妻の洋服についてなど、女性らしい視点で日々のことが描かれている。短くて2カ月、長くて2年という期間を富岡製糸場で過ごし、技術を習得した後には地元に戻り、それぞれの地元の製糸場で指導者として活躍した工女たち。彼女たちもまた、日本の絹産業ひいては近代化を支えたひとりなのだ。

操業停止から20年近くも職員をおき保守管理を続ける

明治26年まで官営だった富岡製糸場は、民間に払い下げられ三井製糸所として生糸生産を続けていく。また明治から昭和にかけて様々な企業に経営が移るものの、昭和12年に片倉製糸紡績(後の片倉工業)が経営する片倉製糸所へ。そして115年間にわたり休むことなく動き続けた工場は、昭和62年3月に操業を停止する。しかし国の指定史跡として富岡市が管理するまで20年近くにわたり、片倉工業は職員を置いて製糸場の保守管理をし続けていたそうだ。

絹の大衆化、養蚕・製糸の技術交流や革新への功績

富岡製糸場の見学終了後、長谷川さんは「昔、繭生産は年1回限りでした。でも大量に生糸を作るために養蚕技術を向上させて年5回もの繭生産が可能になった。そしてフランスやイタリア製繰糸器から日本製の繰糸機へと変わり、日本製の繰糸機が今や中国やインドに輸出されて世界の絹産業を支えているんです」と教えてくれた。高品質な生糸の大量生産に貢献して絹を大衆化したこと、日本の養蚕・製糸における世界との技術交流と技術革新という二つの功績が認められて、「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界文化遺産へとつながったのだ。

今や純国産の絹のシェアは日本で消費される絹量の1%にも満たない。日本の近代化を支えた富岡製糸場は、次は日本が誇る絹文化を支えていく存在になるために、世界文化遺産に選ばれたのかもしれない。 

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世界遺産・富岡製糸場をめぐる旅。未来へ継承するべき理由に迫る【後編】

《森有貴子》

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