国公立大入試はどう変わる? 現状の問題点と大学入試で問う力

 「2次試験廃止」について、まず“正確なところ”をご紹介した方がよいかもしれません。これは正直、やや誇張した表現で、同日の下村文科大臣の会見ですぐ「廃止と言うわけではない」と明言されています。

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4.「1点刻み」の試験より納得性の高い試験とは

 前述の3点と、ここで述べる話は、やや性質が異なる気がします。なぜなら、1~3は、(できるかどうかはともかく)「ああ、そういうことができたらいいよね~」と、少し考えれば誰しも感じることだと思います。しかし4については、「1点刻みが一番公平じゃない?」という考えも、それなりに多くの人が抱いている感覚だと思うからです。

 そこで、ここでは1点刻みの是非を問うのではなく、1点刻みの試験より納得性の高い試験を考えていくという前提で書き進めます。

 「1点刻みの(現行の)大学入試は、ちょっとね…」と感じるケースは、2通りあると思います。

・「教科型試験」の形態のみで、1点刻みで合否が決められることに納得できない場合
・そもそも、1点刻みで合否が決められることに納得できない場合

 「1点刻みの(現行の)大学入試は、ちょっとね…」と感じた方は、冷静に「なんでそう感じるんだろう?」と考えてみてほしいのです。

 僕の感覚では、意外と上記前者のように、「教科型試験の形態のみで」の前提で、1点刻みという実態を捉えようとしていることが多いと思うのです。ですから、「1点刻み」という言葉のみに着目して代案を考えたとき、脊髄反射で「人物重視」の試験とか、その形態として「面接」「論文」を課すことなどがあげられるのではないだろうかと。

 しかし、「人物重視」の試験を課したり、「面接」や「論文」を課したところで、それらの形態においてもまた点数化するのであれば、「1点刻み」という点が解消できる保証はありません。

 そして、「教科型試験の形態のみで、1点刻みで合否が決められることに納得できない」感覚をもつ場合、「1点刻み」が問題の本質ではなく、「教科型試験」の形態のみで判断されるという点が「納得できない」本質のことも多いので、「2.教科能力判別型試験だけでは判別できない能力の発掘」で述べた克服法を提示すれば、納得感が高まる場合もあると思います。

 一方、そもそも「1点刻み」という選抜方法そのものに納得性が薄い場合、代案を考える際に、「選抜する側の“主観”を許せるか、その“主観”はどれくらいの温度感で許せるか」という問題もあると思います。

 なぜなら逆に、選抜する側の“主観”の余地をもっとも少なくしたいとするならば、知識だけを問うた「正解のある問題」ばかりを出題すればよいわけで、行きつく先は「1点刻み」なわけですから。

 ですから、「1点刻み」の克服法として「人物重視」の試験や、「面接」や「論文」を提案する場合、提案者の脳内では必ず「選抜者の“主観”による選別」の余地を認めているはずです。

 ただ、“主観”があまりにも独りよがりのものであると、公平性の観点から好ましくない結果が生まれるのは誰の目にも明らかです。

 したがって、「1点刻み」の問題解決には、「選抜者の“主観”による選別」の余地を認めたうえで、「選抜者の“主観”」に客観性を高める行為~僕の感覚では行為以上の「格闘」~が必要になってくるはずです。

 そしてこの格闘は、選抜する側だけではなく、選抜される側にも必要です。そうでないと、僕の感覚を言葉にするのであれば「フェアーではない」です。

 選抜する側の格闘、これは「1.知識偏重型試験からの脱却」で紹介した、北海道教育大学元学長の村山紀昭さんの次のツイートがすべてを表しています。

「論述方式の入試の客観性の可能性と必要性こそ議論されるべきではないか。日本の教育では、長年こうした論述試験の客観性が軽視されてきた。そろそろそこに踏み込むべきでないか。客観性を、単に点数上の公平性のレベルで論じていては埒があかないと思う。大学人は自らの知的普遍性に確信を持つべきだ。」(村山紀昭氏Twitterより引用)

 「大学人が投げかける問いは、知識問ではなくても、ある程度客観性、普遍性を持って提供できている」という「覚悟」をもつまで公平性を高めていくという格闘、とでもいいましょうか。

 一方、選別される側も、自らの「なぜ不合格だったのか」という言語では理解できない「なぜ」の存在を認める「覚悟」を持つまでの格闘が必要だと思います。

 「点数化されないけれど、客観性は担保できている」という試験のあり方を「よし」とし、その試験で自らが不幸な結果に終わっても、「選抜者側がそういう受け止め方をしたんだ」と割り切る覚悟(と理解)を。

 たとえば論文試験で、自分が「最高の出来!」と思って書いた論文がほとんど評価されなかったとします。「なぜダメなのですか?」と聞いても、「主体性が伝わってこない」「アドミッションポリシーに合わない」などが理由の場合、評価されなかった人間の「なぜ」への答えになっていないと思います。「一見論理的な風で、質問者を煙にまく」回答は用意できるでしょうが。

 「その“なぜ”がわかっていないから(わかろうとしていないから)評価されていない」という感じなのかと。

 また、面接試験の例では、僕自身の話を紹介します。

 僕は就職の際、某自治体で「ほとんどの人が落ちない」と言われていた最後の面接で落ちています。落ちた人間の中で面接以外の評価は1番、という結果まで知らされています。当時の第一志望でした(苦笑)。

 また、勤務先(Z会)の若い頃の昇格試験面接において、「ほとんどの人が落ちない」と言われている面接で落ちました(落ちる人は1割程度です)。

 両方とも「なぜだ!」と思いましたよ、正直。でも、今はその理由がわかります。なぜか。それは「評価者が評価しない回答だったから」。

 「点数上の公平性」を超えた、知的普遍性に確信をもつという、選抜者側の覚悟。そして、その覚悟をもってして問われた試験において、「点数上の公平性」を超えた、知的普遍性を認め、結果を受け入れる、選抜される側の覚悟。「1点刻み」をなくすには、不可欠なのです。

 余談ですが、今、社会で求められている「コミュニケーション能力」を社会全体として上昇させるには、「自分が“なぜ”かわからない結果や表現をいったん受け入れ、その“なぜ”をわかろうとする、自分自身の内心での探究活動」が必要だと思います。

 コミュニケーションとは、その発生の段階で相手との齟齬があることを受け入れて、その齟齬を埋めていく作業に他なりません。

 「点数化されない試験」を早い段階で経験することは、社会人になってからのコミュニケーション能力を高める方向にはなるでしょう。大学入試でそれを経験させるかどうかはまた別の話ですが。

 以上により、教育再生実行会議の配布資料1において、「2次試験廃止」との表現を導いた現行入試の問題点については、2次試験を廃止するという状況までつくらなくても、今のよい部分を活かしながら、解決法を模索できる気がします。
《寺西隆行》

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